「槻の木の弓」の故事は、何ら個人的なメッセージはありません。




親が子を想う心を描いた故事として、読み物としてというと弊害がありますが、興味深いエピソードだと思い記しましたが、これを実践するべきだという意図は全くありません(笑)。




このブログの記事にしても、実は誰を対象にすればいいのか、書くのに躊躇することがしばしばあります。




生徒も読んでいるのか…などと考えると、思ったことも素直に書けない時もありました。




どなたにも迎合して頂けるものを書くというのは技術としても難しいのはいうまでもなく、




思ったことを率直に書くという面でも、熟慮を必要とします。




しかしながら、立派なホームページも出来ましたので、(このブログはあまり目立たないところにリンクしていますが)




今後は、所感なども書いていければと考えています(^-^)/。




保護者の方から、「勉強しなさいと言っても、勉強しない」というお悩みをしばしばご相談受けます。




先日、学生時代の友人と話す機会がありました。




「勉強してたら、うちの子には『お前ら勉強なんかしてんな』と言ってる」と笑いながら話していました。




それは素敵なことじゃないかと、私は応じました。




前提として、「子どもたちが勉強をしていたから」と受け取って、そういうことを言いましたが、




「『勉強しろ』なんて言ったら、しなきゃと思っている子も萎えちゃうよ」と友達として助言しました。




『勉強なんかしてんな』という言葉は、友人の性格から「照れ」も含まれています。本人も同じ年頃にそんなに勉強(学問に関しては)をしてきて今がある訳ではない(と思います)。




その友達の言葉は、「実は勉強してほしい」という反語の意味も含まれていると同時に、




自身の経験から、「学問も大事だがもっと大事なこともある」ということを伝えたかったのでしょう。




共に青春時代を過ごした頃を思い出し、壁にぶち当たったとき、いつもこの友人から助けてもらい、励ましてもらったことを今でも振り返ります。




学歴社会が事実上崩壊した現在(民間では大手を除けばですが)、その意味は更に重みを増しています。




しかしながら、学問を磨くことはそっちのけにしてもいいのか?と問われれば、私の答えは否です。




学問と同時に、もしくは学問を通して人間学も磨ければ、これほど素晴らしいことはないのではないでしょうか。




英数学院は、そんな塾でこれからも在り続けられればいいなと思いました。




もっとディープな話をしてもいいのかは、読んでくださった皆さんのご判断で考えます(笑)。